2017年10月21日

フランク・ロイド・ライトの建築T

「フランク・ロイド・ライト」は、「ル・コルビュジエ」と「ミース・ファン・デル・ローエ」と共に「近代建築の三代巨匠」と呼ばれている。
彼は、アメリカ・ウィスコンシン州に生まれ、ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中退して、シカゴに移り住んだ。「ジョセフ・ライマン・シルスビー事務所」に務め、1年ほどで事務所を辞めて、「アドラー=サリヴァン事務所」へと移った。ここでアルバイトで住宅設計をしたことで「サリヴァン」咎めれて、1893年に事務所をやめ、独立事務所を構えた。
1894年に完成した「ウィンズロー邸」(下の写真)が、独立後最初の作品である。

ウィズロー邸.jpg

その後の彼の住宅建築は、「フランク・ロイド・ライトの住宅建築」で紹介しています。
今回は、彼の一般建築の作品の紹介をいたします。
1903年に、ニューヨーク州、バッファロー市に「ラーキン・ビル」(下の写真)が完成した。

ラーキンビル.jpg

彼の初めての事務所建築の設計で、この建物でこの当時の最新の空調システムの技術を導入した。
1908年に、イリノイ州シカゴ、オークパークに「ユニティ教会」(下の写真)が完成した。

ユニティ教会.jpg

この建物は、彼が手掛けた最初の公共建築である。
1914年に、彼に悲劇が襲った。タリアセンの使用人が、彼の妻と子供、そして弟子4人殺して、自邸に火をつけ「タリアセン惨殺放火事件」である。
1917年には、日本の「帝国ホテル」の設計をするために来日し、「遠藤新」を伴って帰国した。
1919年に、「帝国ホテル・ライト館」の着工によって、その年の暮れに「アントニン・レーモンド」を伴い、来日する。
1922年に、「帝国ホテル」本館から出火したことによって、「林愛作」支配人が辞職したために、建設工期の遅れや大幅な予算のオーバーなどの理由によって、「林愛作」の後ろ盾を失い実質的な解任をされ、残りの工事を「遠藤新」に任せて帰国し、二度と来日することはなかった。
1923年に、「帝国ホテル」(下の写真)が完成した。

帝国ホテル.jpg
「帝国ホテル」の完成披露パーティーの当日に、関東大震災が起こった。これによる被害は、少なくホテルは無事であった。彼の来日中に設計した他の建築は、「遠藤新」が引き継いで完成させた。
1927年に、アリゾナ州フィニックスに「ビルトモア・ホテル」が完成した。

ビルトモアホテル2.jpg

彼の生徒であった建築家「アルバート・マッカーサー」との共同設計である。
1939年には、ウィスコンシン州ラシーンに「ジョンソンワックス社事務所棟」(下の写真)が完成した。

ジョンソンワックス社.jpg

左手のタワーは、1950年に完成した「研究所棟」である。
この建物内部の柱が、非常に特徴的である。(下の写真)

ジョンソンワックス社2.jpg

上に行くに従い徐々に太さを増し、天井部分で広がり屋根を支えている。この柱を彼自身は、「蓮の葉」と呼んでいて、上部のトップライトからの光によって「蓮の葉」が宙に浮いて見え、浮遊感のある空間を演出している。
1948年に、カルフォルニア州、サンフランシスコに「モリス商会」(下の写真)が完成した。

モリス商会.jpg

現在は、1979年にオープンした「ザナドゥギャラリー」として使用され、「フォークアート」作品が展示されている。
1951年には、ウィスコンシン州マディソンに「ユニタリアン・ミーティングハウス」(下の写真)が完成した。

ユニタリアン教会.jpg

彼は、アメリカで20世紀には尖頭を頂いた教会は不適切と感じていて、全知の統一意識を表明した建築を建てようとしたのが、この建物である。
この建物以降の彼の作品は、次回で引き続き紹介をいたします。

今回は、「カーサブルータス」、「Wikipedia」、「エル・デコ」他から紹介しました。

今回は、ここまで!!

☆参考






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posted by 墨水 at 04:46| Comment(0) | 建築 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月05日

ミース・ファン・デル・ローエの建築

「ミース・ファンデル・ローエ」は、「ル・コルビュジエ」、「フランク・ロイド・ライト」と共に近代建築界の三大巨匠のひとりである。
彼は、1886年にドイツ、アーヘンで生まれ、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受け、リスクドルフの建築調査部で漆喰装飾のデザイナーとして勤務した。
1906年には、「ブルーノ・パウル」の事務所に勤務した。
1907年に、「ブルーノ・パウル」の同僚の紹介で、最初の作品「リール邸」(下の写真)を設計した。

リール邸.jpg

住宅建築作品に関しては、「ミース・ファン・デル・ローエの住宅建築」で紹介していますので、ここでは「ミース・ファン・デル・ローエ」の一般建築作品の紹介をします。
1908年から1912年まで建築家「ペーター・ベーレンス」の事務所でドラフトマンとして在籍し、建築を学んだ。
そして、1912年に独立し、事務所を設立した。
1929年に、スペイン・バルセロナで開催された「バルセロナ万博」会場に完成したドイツ館「バルセロナ・パビリオン」を設計した。このパビリオンは、一般大衆向けの展示施設ではなく、スペイン国王を迎え入れるためのレセプションホールとして建てられたものである。万博の開催から一週間後に、パビリオンにスペイン国王を迎え入れてセレモニーが行われた。この建物のためにデザイン制作された椅子が、有名な「バルセロナチェア」(下の写真)である。

バルセロナチェア.jpg

彼がデザイン制作した椅子の紹介を「ミース・ファンデル・ローエの椅子」で行っています。
このパビリオンは、博覧会終了後解体されてしまいましたが、1986年に同じ場所に復元されて「ミース・ファン・デル・ローエ記念館」(下の写真)として現在は建っています。

ミース(バルセロナパビリオン).jpg

1930年には、「ヴァルター・グロピウス」の推薦によって「バウハウス」の第三代校長に就任した。そして、1933年にナチスドイツによって「バウハウス」が閉鎖されるまで校長を務めた。
1938年の第二次世界大戦の真っ只中に、アメリカに亡命を果たした。
そして、1938年から1958年までシカゴの「アーマー大学」(後のイリノエ工科大学)の建築学科で主任教授を務め、同大学のキャンパス計画を手掛けた。
その中でも、有名なのが1956年に完成した「イリノエ工科大学クラウンホール」(下の写真)である。

ミース(クラウンホール).jpg

屋根から突き出た門型の構造体によって屋根を吊り支えているために、内部には柱も間柱もない巨大なワンルーム空間になっていて、その空間の中で授業をしている。
1958年には、ニューヨーク、マンハッタンに高層ビル「シーグラムビル」(下の写真)が完成した。

ミース(シーグラムビルU).jpg

このビルは、完成までに多額の費用が掛かり、当時で最も高価な摩天楼となってしまった。そして、この設計には、「フイルップ・ジョンソン」も関わっている。
1968年に、ドイツ、ベルリンにベルリン国立美術館の「ノイエ・ナショナルギャラリー」(下の写真)が完成した。

ベルリン国立美術館.jpg

この建物は、8本の柱で巨大な屋根を支えていて、屋根の下に一面をガラス張りで囲った建物である。地下にも展示室がある美術館である。
1973年には、アメリカ、シカゴに「シカゴ連邦センター」が完成した。

シカゴ連邦センター.jpg

「連邦センター」前の広場の赤の彫刻は、彫刻家「アレクサンダー・カルダー」の「フラミンゴ」である。「カルダー」の作品は、「ミース・ファン・デル・ローエ」の作品の「ノイエ・ナショナルギャラリー」前の広場にも置かれている。

上の映像はユーチューブより転載しています。

1974年には、アメリカ、テキサスに「ヒューストン美術館ブラウン・ウイング」(下の写真)を増築した。

ヒューストン美術館.jpg

ここにも、「カルダー」の作品が建物の前に置かれている。写真の左奥の赤い造形物です。
彼は、1969年に亡くなっているので、前に紹介した二つの作品は没後に完成したことになる。

今回は、「Wikipedia」、「カーサブルータス」他を参考に紹介しました。

今回は、ここまで!!

☆参考


CasaBRUTUS特別編集 新装版・20世紀の三大巨匠 (マガジンハウスムック)




posted by 墨水 at 10:20| Comment(0) | 建築 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

ル・コルビュジエの建築

彼は、1887年にスイスに生まれ、フランスで主に活躍した建築家である。そして、「フランク・ロイド・ライト」、「ミース・ファン・デル・ローエ」と共に「近代建築の三代巨匠」と言われている。
彼は、家業を継ぐために時計職人を養成する地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んだが、美術学校在学中の1907年に、彼の才能を見いだしたシャルル・レプラトゥニエ校長の勧めで、建築家の「ルネ・シャパラ」と共に最初の住宅「ファレ邸」(下の写真)の設計を手掛けた。

コルビジェ(ファレ邸)2.jpg

1908年に、パリに行き「オーギュスト・ペレ」の事務所で学び、1910年からは、「ペーター・ベーレンス」の事務所に籍を置いて、短期間ではあったが実地で建築を学んだ。

1911年から半年かけてベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方の旅に出た。美術学校で教鞭を執った後に、1914年に「ドミノシステム」(下の図)を発表し、1920年には「レスプリ・ヌーヴォー」を創刊した。


ドミノシステム.jpg

1922年には、従兄弟の「ピエール・ジャンヌレ」と共に事務所を構え、著書「建築をめざして」を発表し、この著書の中で「住宅は住むための機械である」という彼の建築思想を書いている。
1925年には、パリ万博で「レスプリ・ヌーヴォー館」(下写真)を設計した。

レスプリヌーヴォー館.jpg

「レスプリ・ヌーヴォー館」」は、会場のアール・デコ装飾の展示館が並ぶ中でもっとも異彩を放っていた。
これ以降は、数多くの住宅建築を設計し、その中でも、1931年に、フランス、ポワッシーに完成した「サヴォア邸」(下の写真)は、彼の代表作のひとつでもある。

サボア邸.jpg

「サヴォア邸」では、「ピロティ」、「屋上庭園」、「自由な平面」、「独立骨組みによる水平連続窓」、「自由な立面」からなる「近代建築の五原則」のすべてを備え、高い完成度をもって実現された建築である。平面の中央には、緩やかなスロープが設けられ、1階と2階を連続的に繋いでシークエンスを形成している。
彼が設計した数多くの住宅建築は、「ル・コルビジュエの住宅建築」で紹介しています。
1932年には、フランス、パリに「スイス学生会館」(下の写真)が完成した。

スイス学生会館.jpg

この建物は、パリ国際大学都市の一角に建てられ、学生寮であり、彼の建築思想である「ピロティ」によって1階を解放することによって空間に広がりをもたしている。
この敷地の1角に、1959年に完成した「ブラジル学生会館」(下の写真)が建っている。

ブラジル学生会館2.jpg

この「ブラジル学生会館」の建物は、1952年にフランス、マルセイユに完成した「ユニテ・ダビシオン」(下の写真)を外観を彷彿とさせる建物である。

ユニテダビシオン.jpg

この建物は、彼の提案した「輝く都市」に代表される都市計画案を集合住宅として実現した建築と言える。
建築完成年代の順がばらばらになりましたが、1933年に戻って、その年にフランス、パリに「パリ救世軍本部」(下の写真)が完成した。
救世軍本部.jpg

この「救世軍難民院」は、救世軍の依頼で建てられた3棟の建物のひとつで、「救世軍本部」にあたる。巨大な箱型の建物であるが、入り口部分で様々な形状を組み合わせをしてアクセントをもたしている。また、カラフルな外観のこの建物も建設当初の壁面は、平板なガラス張りの表情をしていたが、建設費の高騰などから当初設置予定の中央冷却装置を設置出来なかったために、夏場は非常に暑くてしょうがないので、1935年に開閉可能な窓に替えられた。そして、第二次世界大戦後には、「ブリーズ・ソレイユ」の原色のパネルを取付けることによって現在のカラフルな表情を生み出した。
1955年には、フランス、ロンシャンに「ロンシャン礼拝堂」(下の写真)が完成した。

ロンシャン礼拝堂.jpg
ロンシャンは、元より巡礼の地であり、中世にこの地に建てられた礼拝堂があった。しかし、第二次世界大戦にナチス・ドイツの空爆により破壊されてしまった。そして、戦後になってロンシャンの人々の礼拝堂の再建の願いに対して、アラン・クチュリエ神父が彼に依頼して現在の礼拝堂が完成した。
1959年には、フランス、リヨン郊外に「ラ・トゥーレット修道院」(下の写真)が完成した。

ラ・トゥーレット修道院.jpg

自由な曲線を使って丘の頂上に外観を際立たせた造形の「ロンシャン礼拝堂」とは異なり、丘の斜面に沿うように建つ建物は、禁欲的イメージを垂直と水平の直線だけの矩形で表現した外観でデザインされ、斜面の力を顕在化させた力強い建築として構成されている。
1963年には、スイス、チューリッヒに「ル・コルビュジエ・センター」(下の写真)が完成した。

コルビュジエセンター.jpg

彼の友人であり、アートギャラリーの夫人「ハイディ・ウェバー」の依頼により完成したこの建物は、絵画やリトグラフを展示してあり、総合的なコルビュジエの世界を演出している。しかし、この建物は、コルビュジエの遺作となりました。

今回は、「ル・コルビュジエ財団HP」、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。
今回は、「チャンディーガル都市計画」等の作品は除いてあります。

今回は、ここまで!!

☆参考





posted by 墨水 at 18:21| Comment(0) | 建築 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする